2024年パリパラリンピックに男子バドミントンシングルスで出場する梶原大暉選手。
世界ランキング1位で金メダルの期待がかかっています。
今回は、梶原大暉選手の生い立ちや右足を失ってしまった事故原因は何なのか、パラバドミントンに出会ったきっかなどについて調査しました。
梶原大暉の生い立ち
梶原大暉の生い立ち(簡略)
梶原大暉選手は2001年11月13日、福岡県福岡市に生まれます。
障害は交通事故にあったためで、生まれつきの障害はありません。(事故内容の詳細はこの後記載しています)
梶原大暉選手は、小学3年生のときから野球を始め、中学生でも強豪のクラブチームに入り、投手として活躍していました。
中学の時に交通事故に遭い、右足を切断します。
高校は福岡市立福翔高等学校に進学し、パラバドミントンを始めます。(パラバドミントンとの出会いもこの後記載しています)
大学は日本体育大学へと進学し、大学卒業後は、ダイハツ工業に就職します。
大学進学後やダイハツ工業に就職してからもパラバトミントンを行い、2019年の代表選考レースで国際大会を戦う中で急成長を遂げ、10月のデンマーク国際大会で初優勝を果たします。
右足切断の経緯(事故原因)
事故の詳細
梶原大暉選手は中学2年生(13歳)の時に交通事故に遭い、右足を失いました。
梶原大暉選手はかつては野球少年で、福岡にある軟式野球の強豪チームに入り投手をしていました。
その交通事故が起きたのは、野球の全国大会の試合の前日で、自転車で練習に向かっていたところ、トラックとの交通事故に遭ってしまいました。
当時事故に遭った際は意識はあったものの、右足切断後は1か月意識不明の状態が続き、左足にも麻痺が残ってしまいました。
梶原大暉選手はこの大会後、新チームでエースナンバー「背番号1」をもらうはずでした。
片足を切断するほどの事故とは
交通事故に遭って片足を切断する判断を下すときとは、その怪我が死に直結してしまう可能性がある場合です。
交通事故による切断の場合、骨が皮膚を突き破ってしまい大量出血となること、傷口からの感染症などにより死に至る可能性もあります。
また、足が壊死してしまう状態にあるときも、切断の選択をします。
人間の体は免疫系の要素(白血球や抗体)を血流を介して全身を保護しているので、体の一部が壊死してしまうと感染が急速に広がってしまい、適切な治療を行っても死に至る可能性があります。
梶原大暉選手の足も、いずれかの状態にあり命の危険があったことから足を切断せざるを得なくなってしまったものと思われます。
そう考えると、命に係わるかなり大きな事故であったことが分かります。
梶原大暉パラバドミントンとの出会い
梶原大暉選手がパラバドミントンと出会ったのは高校生の時です。
どんなスポーツができるかを考えた時、ソーシャルワーカーに勧められた競技の一つがバドミントンだったそうです。
また、梶原大暉選手は、パラバドミントンを一目見た時にこの競技をやろうと思ったそうです。
梶原大暉選手は「野球の経験が生きた」と、以下のように話しています。
●技術面
・ラケットでショットを打つときと、ボールを投げるときの手首の動きが似ている
・羽の地点を捕らえる感覚は、フライを捕る感覚に近い
●精神面
・練習がきついチームだったから、精神面でも生きている
梶原大暉選手は小学3年生の時に野球を始め、中学では地元福岡にある軟式の強豪チームに入り投手をしていました。
それだけあって練習はかなり厳しいものだったそうです。
そして梶原大暉選手は以下のように話しています。
「変わらず野球は大好きなんですけど、それと同じぐらい好きなものに出会えて、没頭して活動できているので、パラバドミントンに出会ってから人生が変わったと思いますね」
引用元:https://www.nhk.jp/g/sports/blog/a3nivsvsg8/
事故の前は、甲子園の舞台に立つことが夢でした。
事故に遭い、その失意の中でパラバドミントンに出会い、世界で活躍する選手になったこと、そしてパラバドミントンを始めてから4年足らずで世界ランキング1位に上り詰めることができたのも、野球での経験があったからなんですね。
梶原大暉のモチベーション
モチベーションはお世話になった人への恩返し
梶原大暉選手は、モチベーションについて以下のように話しています。
「自分のモチベーションになっているのは、お世話になった人への恩返しをしたいという気持ち。プレーで感謝を伝えたい」
引用元:https://www.asahi.com/articles/ASP955D5HP91TIPE00L.html
身近で支えてくれている両親やコーチ陣に対する感謝のみならず、中学時代の野球クラブのチームメイトへも恩返しの気持ちを持っています。
中学時代のチームメイトへの感謝
中学生の時に所属していた野球のクラブチームのチームメイトは、事故に遭った後も梶原選手を支え続けました。
その時のことを梶原大暉選手は以下のように話しています。
「何度も見舞いに来て、戻ってきたらこんなことをしようと、自分の居場所がある接し方をしてくれた。それで復帰したい気持ちが強くなった」
引用元:https://www.asahi.com/articles/ASP955D5HP91TIPE00L.html
チームメイトは事故に遭った年は梶原大暉選手を全国大会に連れていくことができないため、来年も全国大会に出場して梶原大暉選手を連れて行こうと話し、実際にそれを成し遂げました。
梶原大暉選手はスコアラーとしてベンチに入り、全国大会に出場することができました。
事故に遭った失意の中、また復帰しようと気持ちを立て直すことができたのは、チームメイトの存在があったからです。
梶原大暉の戦績
梶原大暉選手のこれまでの戦績です。
年 | 大会名 | 成績 |
2020年 | 東京パラリンピック | 男子シングルス:金メダル |
東京パラリンピック | 男子ダブルス:銅メダル | |
2022年 | アジアパラ競技大会 | 男子シングルス:金メダル |
世界選手権 | 男子シングルス:金メダル | |
2024年 | 世界選手権 | 男子シングルス:金メダル |
引用元:https://www.parasapo.tokyo/topics/63359
まとめ
・中学2年生(13歳)の時に交通事故に遭い、右足を失ってしまった。
・パラバドミントンを見た瞬間に、この競技をやりたいと思った。
・パラバドミントンに出会って、人生が変わった。
・モチベーションはお世話になった人への感謝の気持ち。
梶原大暉選手のことをこれからも応援していきましょう!